コンサートレポート
嶋田邦雄氏「あまりにも私的な演奏会評」
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7/17(土)ザ・フェニックスホール
「夏祭なにわなくとも室内楽2010」 嶋田邦雄
何ともこの暑さには呪いの言葉を投げつけたくもなる。
しかし、今年もフェニックスホールで開かれた<夏祭 第2夜>“S.C.H.静寂をつらぬく熱き響き”(7月17日)はやはり刺激に満ちたものだった。
体調不良で出席できなかった<第1夜>“C.H.に脱帽”(3日)のことがあれこれ想像されて(ボクの注目する演奏家が出ていることもあって)また、また呪いを口にしてしまう。
しかし、このような企画がコンサート・ラッシュの中にきちんと座を占めるきっかけになっているのなら、このくそ暑さ(sauheiβ!)もまあいいとするか。
<第2夜>について言えば、R.シューマン生誕200年への想いをユニークな室内楽の選曲で満たすだろうとの憶測がずばり的中。
先ず、その曲目配置の面白さに目を見張った。
冒頭の「アンダンテと変奏曲 変ロ長調」は2台のピアノ(加納くみ子&長戸みのり)と2本のチェロ(日野俊介&池村佳子)、それにホルン(瀬古宗 優)が加わった興味深い5重奏曲だ。
3つの楽器の対話が実に親和力に満ちた形で展開していたが、嘆きを秘めた呟きを優しい語りに転化するように響くチェロと、それにアクセントをつけるように絡み合うホルンとピアノが内面の喜びや悲嘆の襞を巧みに引き出した。
ところによって聞こえるチェロの異化音も苦悩の断面を提示しているようだ。
楽器の組み合わせの妙に注目した。
2曲目の「おとぎの絵本」はヴィオラ(竹内晴夫)とピアノ(富岡順子)のコンビによる演奏だったが、第4部に付けられた“メランコリックにゆっくりと”の表示が語るように、民衆の苦悩や、歴史的な悲しみを秘めたおとぎ話の世界をヴィオラが沈潜の中に希望を滲ませた表情で見事に描きだしていた。
そしてそれは「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第2番 ニ短調」へと繋がる。
ヴァイオリン(菊本恭子)とピアノ(小池 泉)による“燻し銀”の世界だが、ここに引き出された想いはシューマン特有の“暗い情熱”をもじっと見詰める冷静な視線である。
激しくても常に覚めたもう一人の自分が同居しているような演奏が彫りの深い曲想を構成し、冒頭の「アンダンテと変奏曲」からの流れを総括しているようでもあった。
チェロ→ヴィオラ→ヴァイオリンと5度ずつ高まる楽器によってシューマンの内面を独自の角度から照射したユニークな試みともとれるし、その意図を反射するような演奏であった。
後半は先ず、クララ・シューマンの曲を2曲披露した。
「ロベルト・シューマンの主題による変奏曲」(ピアノ:椋木祐子)と「ピアノ三重奏曲 ト短調」(ピアノ:小池 泉、ヴァイオリン:菊本恭子、チェロ:池村佳子)だ。
ボクにとって決して聞く頻度の高くないクララの曲(FMラジオなどを別にすれば)。
新鮮な体験の機会であった。
しっかりした構成の中にロベルトと共通する熱い思いを込めている点ではやはり19世紀中葉へ向かうヨーロッパ音楽界の思潮を感じる。
古典派のような堅固さを持ちながら“熱い”。
しかし、ロベルトは常にその様式、ワクから飛び出そうと試み(無意識的にも)、ワク自体を揺さぶってその中で“暗い情熱”が醸成されていた。
それに対し、クララの“熱い想い”はワク、様式をロマン派的に飾ることはあってもワク自体を破壊するヴェクトルはもっていない。
むしろ様式を堅固に固めている感じだ。
その印象は最後に演奏したロベルトの「ピアノ五重奏曲 変ホ長調」に数々の示唆を与えてくれた。
演奏はピアノ:椋木裕子、ヴァイオリン:釋伸司と池川章子、ヴィオラ:竹内晴夫、チェロ:日野俊介。
その編成を見ても、後半の曲目の流れの中で、ピアノを中心に1人、3人(クララ)、5人(ロベルト)と規模の広がりとともに想いの広がりも構成されている点が先ず面白い。
「ピアノ五重奏曲」では内面で熟成された熱い想いが外へと噴出するヴェクトルをもろに感じさせるし、その想いを演奏者たちは巧みに構成していた。
決して体裁よく内側へとまとまるのではない。
各奏者たちはむしろ対峙するように向き合う。
外へと向かう想いをその極限で抑え、内側へといったん跳ね返し、その反発力でさらに広い世界へと飛翔させているようだ。
シューマンのそれと融合した5人の演奏は明らかに、果たされなかった“過去の人々の想い”を救出し、“現在の想い”へと再創造しているようであった。
このような演奏を「ああだ」、「こうだ」と分析する行為は評論の驕りであろう。
その音楽が創り出される共同体に場を占める人が、その音楽への想いを共に作る(zusammenmachen)作業に参加できるか、どうか、が問われるのだと思う。
そのような刺激に満ちた演奏のように私には思えた。
それも、クララの2曲の後にロベルトの「五重奏曲」を配置した知的なプログラム構成も一役買っているのかも知れない。
さらに言えば、前半の開始曲「アンダンテと変奏曲」も五重奏の形式であった。
全体を形式と内容(“芸術家の想い”が“世界の想い”に介入する「時代の思潮」)の両面から検証する作業にもかかわるような内容の濃い演奏会であった。
私自身、シューマンの“暗い情熱”に強く惹かれながらも、正直のところ、辟易としていたことを告白しなくてはならない。
そう、“破滅へのヴェクトル”をも内包するシューマンの想いの前にまともに立てなかった自分を恥ずかしく思う。
1848年の革命時に革命に背を向けてドレスデンを脱出したシューマンをヴァグナーと比較して“非社会的”と言ってみた時もあった。
しかし、破滅をも厭わない想いを持っていたが故に、彼の繊細な神経を守り通したかったのだろう。
彼の“暗い情熱”につながる思潮は1848年の革命から1971年のパリ・コミューン、さらにその後のヨーロッパの、いやアジアも含めての世界的な社会史の激動に重要な端緒やエネルギーを与えているではないか。
そんな数々の思い、連想を次から次と引き出してくれたコンサートである。
この演奏会にかかわった演奏者、スタッフに敬意を表したい。
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10/21(水)ザ・フェニックスホール
「小松英典が歌う珠玉のドイツ歌曲」 嶋田邦雄
もう20年ほど前のことだが、小松英典さんの話を梶本音楽事務所の応接間で聞いたことがある。「ドイツで暮らしていると、シューベルトやマーラー、リヒャルト・シュトラウスなどの雰囲気を身近に感じられていいですね」と問いかけた時、小松さんからは意外な言葉が返ってきたことを覚えている。「いや、今ドイツの街で聞かれるのはシューベルトとはかけ離れた音楽ですよ。いわゆる“クラシック音楽”は日本以上にマイナーですよ」と語る彼の顔は心做しか寂しそうな表情に変っていた。小松さんの厳しい内面、密かに抱える苦悩が彼の歌唱にどのような“深み”を積み重ねてきたのか、を再確認したい気持ちがあったことも告白しなくてはならない。
小松英典の明瞭で音楽に昇華されたドイツ語は鋭く、しかし優しく私の胸の中に入り込んできた。ドイツ語を母語とするような自在さと同時に、それをさらに異化して歌詞の意味を聴衆に問いかけるような真摯さがひしひしと伝わってくる。シューベルトのあの「魔王」ではまさに劇的な叙事が、必死に訴える子供と、「何もないんだよ」と宥める父親、甘く囁きかける魔王との間の微妙な“断絶と繋がり”の呼吸が痛いほどに放射される。<In seinen Armen das Kind wartot.>と呟くように歌った最後のフレーズは一瞬、会場の空気を凍りつかせるような凄絶なものだった。コルト・ガーベンのピアノも小松英典の呼吸を瞬時にとらえて緊張した世界を構成する巧みな伴奏だ。
この日、小松が選んだのはすべてピアノが歌唱と対峙しながら独特のリートの世界を作り上げてゆく曲ばかりで、それぞれに彫りの深い物語を内包している。それらは癒されることのない悲しみ、あるいは喜び、果たされない想いや切ないほどの憧れ、諧謔などを伝えてくれたが、小松とガーベンの音楽によって詩のなかに封印されていたそれらの物語があたかも蘇生し、息を吹き込まれたようであった。マーラーの“子供の魔法の角笛”にはもともと苦難の中に生きる民衆のユートピアが濃厚に息ついているように思う。小松の歌唱はまさにそのユートピアを私たちに提示してくれた。ほほえみの表情の裏に隠れている苦悩や悲哀をも巧みに引き出しながら。
最後に、小松がアンコールで歌ったブラームスの『子守唄』の凄絶さに打たれたことも書かなければならない。フェニックスホールの壁が引き上げられ、車のライトに浮かぶ夜の街に感激し表情で小松は歌った。その中の一節、…… morgen fruh wenn Gott will, wirst du wieder geweckt……はこのコンサート直後に私自身が体験した心筋梗塞による入院の際に夜毎、頭に、心に響いてくる一節であった。もちろんカテーテル処置の際にも。小松英典のコンサートについて書きたいとの焦りを抱きながら病院のベットで悶々としていたが、やっとでてきて、再び書くことのできる幸せをかみしめている。
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7/17(金)ザ・フェニックスホール
「夏祭なにわなくとも室内楽2009」 嶋田邦雄
なんという粋なタイトルだろう。
«絃高き調べ、いと高き世界……»
のサブ・タイトルで組まれた第2夜。極々真面目で、高度なプログラム構成とこの洒落た“遊び”はどのようにマッチするのだろう、との好奇心で会場に入った。正直言って、何日か続いた蒸し暑い、地獄の天気に私は心身ともに草臥れ果てていた。「出演者の体調不良により公演を延期します」なんて貼紙でも出ていれば・・・なんて不吉な期待がなかったとはいえない。
でも、そのような不謹慎な考えは裏切られるのが落ちである。まさに関西の中堅演奏家の真摯な演奏に出会えた。それまでの疲れは演奏が生み出す“思考への勧誘”によって、新しい想いを生むエネルギーに転化していった。ブラヴォ!
先ず、笹村直子(Pf)、田辺良子(Vn)、池川章子(Vn)、三木香奈(Va)、日野俊介(Vc)によるダリウス・ミヨーの『世界の創造』。
バレー曲(1923)をもとに1926年に「ピアノ五重奏曲」として作曲された曲だが、この企画の開始にはある意味で最も相応しい。
題名からは宗教的な天地創造との関連を考えたくなるだろうが、私はまったく違う考えをこの日の演奏から感じ取った。これは「人間による、新しい人間的“世界の創造”」だ。
初めのプレリュードでは明らかに、ピアノと弦楽器群は違う世界を奏でていた。それは、技能未熟者によるピッチの不整合とか、ズレとかではない。ピアノも弦もそれぞれ素晴らしい演奏をしながらそれは調和していない。ある意味では凄絶な異化を提示しながら、その中に凄まじいエネルギーの渦を覗かせる。それが進むにつれ、不思議な調和を作り出した。しかし、それは決して予定調和的な微温世界ではない。崩壊と破滅とを内包する瞬間的な調和世界である。その危機的な世界に現れるジャズの響き(それはスコット・ジョブリン的な懐かしさも含んでいたが)はまさにミヨーの時代の希望と危機意識とが綯い交ぜになった魅力に満ちた渾沌だ。5人のアンサンブルはこの希望と危機、調和と渾沌とを見事に音世界に昇華した。
続いて演奏されたのは田辺良子(Vn)と笹村直子(Pf)によるクロード・ドビュッシー『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』。
ドビュッシー最晩年の
1916-17年の作だ。沈潜した内省的な想いを凝縮した技法で構成した曲だけに、この日の奏者のように、思想も技能面も充実した内容を備えていないと演奏は無理だろう。ドビュッシーというと決まり文句のようについてまわる“印象派”のレッテルが何か虚しい空文句のように響く。そのような凄絶さと、同時に聴衆を包み込む優しさをも感じさせる演奏だった。
3曲目に配置されたのはモーリス・ラヴェルの『ピアノ三重奏曲』。細見理恵(Pf)と田辺良子(Vn)、斎藤建寛(Vc)のコンビが演奏した。
1914年、ちょうど第1次世界大戦が勃発したころの作品だ。複雑な想いが内包されているのだろうが、それはむしろ凝縮した完成度の高い作品内容として結実している。その緻密な内容をこのコンビは打打発止のぶつかり合いの中に構成した。といっても決して表面的な激しさを見せつけるのではない。内面へと向かってゆくエネルギッシュな融合のヴェクトルである。ラヴェル特有の色彩感は当然描き出されるが、それも決して浮き上がった原色の展示ではない。複雑に融合しながら、なおそれぞれ固有の色彩を持ち続ける奥深い色彩感がこのコンビによって引き出されたのだ。
それにしても、3作品に連続して出演した田辺良子の内容の濃い活躍に注目したい。当然のことではあるが、ミヨー、ドビュッシー、ラヴェルとその音色を微妙に変える。ミヨーで示した一種、異化を内包した音色がドビュッシーでは輝きを内面に封じ込め、沈潜と枯淡を表面に引き出す。ラヴェルではその色彩が表に出てくるが、しかしそれも実に深い陰影に裏打ちされた音色である。笹村直子のピアノにもそれは共通することだが、このような企画だからこそ、聴衆はそれを目の当たりにすることができたのだろう。演奏者にとっては大変な負担だと思われる演目が奔放に配置されたのだ。聴衆にとってはクリナーリッシュな御馳走であることは間違いないのだが。
後半は先ず、日野俊介(Vc)と笹村直子(Pf)によるガブリエル・フォーレの『エレジー』と『シシリエンヌ』。
場内アナウンスで解説されたように、『エレジー』は1880年、『シシリエンヌ』は1898年と19世紀末の作品。内部に崩壊の危機を抱えながらもまだ旧世代の調和の残り火を吟味する感慨が感じられる。それは来るべき危機の時代を予感する20世紀の作品と微妙な差異を提示していて面白い。日野俊介のチェロはその味わいを実に深い音色で引き出し、この日最後の演目、オリヴィエ・メシアンの『世の終わりのための四重奏曲』をより強く印象付けながら引き出す役割を果たした。
『世の終わりのための四重奏曲』を演奏したのは宮本聖子(Pf)、池川章子(Vn)、青山秀直(Cl)、斎藤建寛(Vc)のメンバー。
この曲が作曲された経緯
は実に劇的である。1939年に『オルガンのための<栄光の聖体>』を作曲したあと、兵員として動員されたメシアンは翌、1940年にドイツ軍の捕虜に。収容されたシュレージエンのラーゲル内で1940−41年に創ったのがこの曲で、収容所内で初演されている。
8つの構成部分のサブ・タイトルを見る限り、かなり濃厚な宗教的な色彩を感じさせる。熱心なカトリック信者というメシアンの存在と関連付けてこの曲の中に「神への熱い帰依、讃歌」を見る指摘が多い。しかし、その指摘に十分耳を傾けながらも、私は同時に別の想いを読み取りたくなった。この日の演奏は私をそのよう
な想いに誘い込むほど凄絶なものであった。それは表面に現れる“神への讃歌”とは全く逆の“神の不在”,“不実な神への怒り”の視線である。
現代の世界に人間否定の殺戮がまかり通るのはなぜか、神はどこまで人間を試みれば気が済むのか――といった絶望感である。
旧約のヨブはありとあらゆる試み、責め、苛みを神から受け、信仰を失いかける。それでもなおヨブは神を棄てなかった。しかし、現代の合理化された組織的殺戮(場合によってはそれが神の意志に沿う行為であるとまでフレーム・アップされる殺戮)を放置する神とはいったい何なのか。
そう言えば、キリストも十字架上で息絶える前、「エリ、エリ、ラマ、サバプタニ(わが神、わが神、なに故われを見捨て給う)」と叫んだではないか。人々の罪を贖うためにキリストをこの世に遣わした(自分は一度も姿を現さずに)、などというのは初めから虚妄だったのではないか。神の不在――。この日の演奏は私の中にこんな想いをも強く刻み込んだのだ。
不協和を含む弦とピアノの絡み合い。鳥に託したクラリネットの叫び。これらはこの世の深淵を見詰める絶望と、それをなお乗り越えようとする希望とが融合した側面を示しているのではないか。
第8部の「イエスの不滅性への讃歌」で描き出されたピアノとヴァイオリンの極限まで凝縮された静かな叫びは、神の不在を乗り越えて自ら新しい神を創造することを宣言する、切ないまでの訴えではなかったか。
「“世の終わり”とは別の世の始まり」との解説をアナウンスは語った。その通りだろう。
ドイツのクリスマス聖歌に歌われる“Welt ging verloren, Christ ist geboren(世界は滅び、キリストが誕生した)”の理念は当然、メシアンの想い、この曲想の中にもあったことだろう。その出発点に立ちかえってみると、私の中に芽生えた想いはあまりにも冒涜的との誹りを受けて当然だろう。しかし、「神の不在」、「神の不実への怒り」などの疑念を通してしか、真の人間存在を見詰め直すチャンネルは開かれない、と私は思う。
そのような思考へのきっかけを提示してくれた「世の終わりのための四重奏曲」の優れた演奏者たち、またこれらのプログラムの構成、監修者とプロデューサーに心からの敬意を表したいと思う。「世界の創造」に始まり「世界の終わり」を経てまた新たな世界が創られる。それがどのような世界になるのか――それを決定するのはやはり神でなく、人間だ!
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6/17(水)兵庫県立芸術文化センター・小ホール
「Fresh Concert Vol.10」嶋田邦雄
若い世代の音楽家には誰にでも無限の可能性が秘められている。その一端を披露する機会がこのようなコンサートだと思う。いわゆる“おさらい会”や“発表会”ではない。ある意味で自立した演奏者を目指す自由さが魅力となって、演奏内容も豊かなものに昇華している。この日(6月17日・兵庫県立芸術文化センター小ホール)演奏したのはピアノ3人、フルート2人、声楽4人(ソプラノ3、メゾ・ソプラノ1)だった。第1部、第2部の順番にかかわりなく、部門別に寸評を試みたい。
先ず<ピアノ>。第1部で小合麻里奈が弾いたのはマルタンの「ピアノのための8つの前奏曲」から第2・5・8番の3曲。艶のある柔らかい音色が曲の色彩感を的確に引き出した。ただ、慾を言えば、3つの前奏曲を通して一つの物語を構成するような曲ごとの変化を描き出して欲しかった。8つの前奏曲全体だと当然、それは出てくるはず。何か物足りなさを感じたのは惜しい。第2部では進藤真琴がラヴェルの「ボロディン風に」「シャブリエ風に」「古風なメヌエット」を弾いた。どことなくスラヴ的な雰囲気がいかにもシャブリエ的な曲想に移り、それはさらに透明感の強いバロック風な舞曲の雰囲気を演出する。それでいて、全体はあくまでもラヴェルの音である。面白い。全体の最後に演奏されたのは齋藤雅によるヒナステラの「ソナタ 作品22」。熱のこもったダイナミックな演奏がヒナステラ特有の世界を引き出した。その中でシンコペーション的な跳躍を巧みに演出した第1楽章、沈潜した透徹の世界を投影した第3楽章、再び激しいパッションを前面に出しながら、それはどこか澄み切った世界に変容している第4楽章、と全体で大きな物語世界を描き出していた。技巧面も、内容の深い彫り込みの面でも注目に値する。Fresh Concertを締めくくるのに相応しい演奏であった。
<フルート>では第1部で中右奈美がG.ショッカーの「エアボーン」を演奏した(ピアノは西口淑子)。膨よかな音色だ。自然と一体化するような音世界が滑らかな流れの中に描き出された。フルートだからこそ作り出せる音世界である。ただ、自然に溶け込む音色と、それを異化するような音がその流れの中に共存している。その違和を立体的に引き出したら、曲の面白さはもっと強調されたと思うのだが。第2部で内藤安佐子はクーラウの「序奏とロンド」を披露した(ピアノは渡邊つかさ)。典雅という表現がいいのだろうか。端正な演奏が柔和で暖かい音色から紡ぎ出される時、何か特別な物語が語られているような雰囲気に包まれる。それは演奏者自身がこの曲想に自分の想いを重ね合わせ、新しい音楽世界へと昇華させた結果なのだろう。魅力に満ちた演奏である。
<声楽>第1部では先ず、松本知子(ソプラノ)がドニゼッティ「一滴の涙」とヴェルディの歌劇「エルナーニ」の中のアリア“エルナーニ、私を奪って逃げて”を歌った(ピアノは原田寛子)。松本のヴィブラートを全く使わない歌唱に接した時、何と清々しい雰囲気に包まれたことか。バロック曲のような透明さが歌曲あるいはアリアを包む。情熱に満ちたひたむきな歌唱が曲を盛り上げるが、決して発声は明瞭で濁らない。力量を積んだはずのヴェテラン歌手がヴィブラートを乱用し、発声は濁り、歌詞も曖昧になっているステージにこれまで何度も出合っている。それに比べ、松本の歌唱に実に爽やかな印象を受けたのは一つの貴重な発見であった。
続いて斉藤智美(ソプラノ)が團伊玖磨の「紫陽花」とドヴォルジャークの歌劇「ルサルカ」から“月に寄せる歌”を披露した(ピアノは大谷祥子)。エネルギッシュで、これまでにかなり歌い込んでいる鍛錬された声である。どちらかと言えば、燻し銀の輝きである。「紫陽花」はあの雨の季節に静かに地味な花を咲かせる、というより、派手に大輪を開いているような曲想(團伊玖磨の)だが、それを斉藤はできる限り抑制していた。適切な処理だ。「月に寄せる歌」ではもう少しスラヴ語特有の粘りつくような発音を聞かせて欲しかった。彫りの深い歌唱で内容の濃さが引き出されているだけに欲を言いたくなる。
第2部では阪上真知子(メゾ・ソプラノ)が中田喜直の「ゆく春」と、モーツァルトの歌劇「皇帝ティートの慈悲」の中の“行きます、だが愛しい人よ”を歌った(ピアノは大谷祥子)。力量のある演奏家である。声の独特の膨らみで包み込むような歌唱は歌う曲の魅力を倍加して聴衆に届ける力を持っている。ただ、感じたのは歌詞内容がかなり曖昧になってしまうこと。歌詞を明瞭に発声するといっても、それは朗読ではなく、音楽としての明瞭さである。その点を考えて発声を試みればさらに魅力的なものになると思う。
白濱梨枝子(ソプラノ)はドニゼッティの歌劇「ランメルモールのルチア」から“香炉はくゆり”を披露した(ピアノは梶原晴子)。よく知られたアリアだけに、どのように歌うか、白もプレッシャーが少なくなかったろうと思う。素晴らしいステージだった。あの歌劇の内容を十分に咀嚼していることは歌いながら“自然に”身体の各部分が動く様によっても分かる。決して大きな動きではない。歌唱が必然的に生み出す動きなのだ。だからこそ、あれだけの長いシーンを緊張を持続したまま歌唱によってリードすることができたのだろう。注目したい舞台の一つである。
演奏者についてのコメントは以上の通りだが、一つ気になったことについて簡単に触れておきたい。それは聴衆の問題である。自分が関係している演奏者がステージを降りるとその奏者と一緒に客席を後にする人が少なからずいた。これだったら“おさらい会”や“発表会”とあまり変わらなくなってしまうのではないか。Fresh Concertはあくまでもコンサートであると私は考える。無限の才能を秘めた若い音楽家の“芽”を温かく見守ろうではないか。自分と関係のない演奏者の才能にも敬意を払い、注目する目を私たちが持ちたい。その積み重ねの中から若い芽が育つ土壌は準備されるのだと私は思う。
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5/31(土)兵庫県立芸術文化センター 神戸女学院・小ホール
「斎藤建寛・細見理恵 デュオリサイタル」嶋田邦雄
この日、前半に演奏されたC.ドビュッシーとA.シュニトケの「チェロとピアノのためのソナタ」が投げかけた衝撃は何日か経った今でも私の心の片隅をしっかりと占拠している。斎藤建寛の弾くチェロ(これまでに何度か聞いているが、ピアノはいつも細見理恵だったと記憶する)は決してメロディー・ラインを追うのでなく、一音、一音を積み重ねていく奏法に特徴付けられているように思う。その一音一音には凝縮された世界観や想い(それは作曲者の想いを必死に探ろうと迫る演奏者の想いだろう)が内包され、それが流れとして結び合わされた結果、一つのメロディーとして構成される。その演奏はどんなに聴き慣れた曲でも、初めて聴くような新鮮さを放射する。ドビュッシーとシュニトケの演奏では斎藤のこの奏法が特に効果的に機能していた。
ドビュッシーの「チェロとピアノのためのソナタ」は1915年、彼の死の3年前に作曲されている。斎藤が指摘するように、病に冒された作曲者が自分を内省的に振り返り、見詰める凄絶な眼差しを感じる。同時に、ドビュッシーは彼が積み重ねてきた数々の音楽語法の革命的な試みを自分から切り離し、それすらも“他者”として見詰める透徹した視線を放射している。第2楽章でピツィカートがピアノと交わす交錯した対話にそれは端的に描き込まれていると思う。チェロとピアノという純化された音世界にこそ、無限の問いかけや静かな叫びなどが凝縮された結晶体となって描き込めたのだろう。それが斎藤の深く見透すようなチェロとそれを側面から静かに支える細見のピアノによって引き出されたのだ。
シュニトケの「チェロとピアノのためのソナタ」の衝撃はそれ以上のものだった。それは確かに“祈り”である。満身創痍になりながらもなお立ち続けようとする求道者の気迫と尊厳を感じさせる。作曲された年代(1978年)を考えると、彼を取り巻く政治体制との緊張関係を抜きにしてこの凄絶なメッセージを汲み取ることは出来ないだろう。
しかし、これはショスタコーヴィチなどについても言えることだが、作曲者の苦悩を政治、あるいは社会体制(ソヴェト)の“犠牲”という側面からだけ捉える風潮に私は疑念を抱いている。芸術家の思考をそれほど単線的な問題に還元することはできない。その俗化された風潮はソ連時代の芸術家に共感しながらも、結果的に彼らの思想を矮小化することにもなりかねない。歴史が大きく変わる時代に生きる芸術家は否応なしにその巨大な“変革”を芸術としてどう捉え、描くか、の課題と向き合う。1917年のロシアでの社会主義革命はある意味で巨大な歴史の実験だった。「人間による人間の抑圧、搾取をすべて廃絶する」との理想を現実の社会システムとして実現した革命。その理念には大半の芸術家が心から賛同していた。しかし、“現実のものとなったユートピア”をどのようにして永続させるか、への考えは当然のことながらさまざまに異なる。それまで芸術らしい芸術に接する機会のなかった民衆に「どのようにして芸術を届けるか」、あるいは「革命に時代の芸術の在り方」を巡る革命指導部と芸術家たちの乖離が修復不可能にまで広がったのも事実だ。今、私たちが観察の対象にしている“ソ連社会における芸術家の悲劇”はその歴史的な過程の中で生み出された。しかし、芸術家たちは決して負け犬的な犠牲者ではなかった。彼らなりに新しい時代の芸術をどのように創ったらいいのか、その形式はどうなるか、などの課題について、意識的であろうとなかろうと、真剣に向き合っていた。政治権力との緊張関係をすら彼らの芸術の巨大な栄養源にして、より深く彫り込んだ、むだのない、凝縮した音楽語法を創り出すのに成功した芸術家もいる。シュニトケはまさにその一人だった。
一切の情緒を排除した、刻みこむような透徹した斎藤のチェロに、ある時は激しく、ある時は限りない優しさで語りかける細見のピアノはシュニトケの苦悩を私たちの時代の苦悩に重ね合わせるものだった。シュニトケの訴えを聞き、その痛みを自分自身の痛みとして私たちが引き受けるとき、そこに初めて“歴史の救済”が実現するだろう。そのような示唆を私たちに投げかけた斎藤のチェロが、その透徹した音の背後に限りない暖かさを内包していることに私が気づいたのは、斎藤が弓をチェロから離した瞬間だった。
後半のプログラムにはある意味で前半と対照的な演目が配置されていた。ハイドンの「ディヴェルティメント ニ長調」を斎藤はバロック楽器、バリトンのような音色で演奏した。“本当にハイドンの作品であるかどうか不明”という由来は私たちにむしろ実用音楽が証明する興味深い音楽の側面を伝えているように感じた。それは、“誰それの作品”というより、ハイドンの時代の作品であることを如実に示している。王侯、貴族の慰みとしての実用音楽に示された“形式”や“内容構成”が簡潔に、楽しく提示されていた。
最後はR.シュトラウスの「チェロとピアノのためのソナタ ヘ長調」。瑞々しい若さと、成熟した沈潜とが入り混じりながら破綻を見せない構成で進行した。聴きやすい。斎藤と細見の演奏でそれは可能になったことだろう。コンサートの締めくくりとしては望ましい選曲だ。ただ、私個人としてはシュニトケの痛みを背負い、その祈りにも似た響きを心に刻み込み、いつまでも引き摺っていたい想いもある。それほどに衝撃的な演奏会だった。
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5/30(土)ザ・フェニックスホール
「フランス印象派音楽と絵画の出会い」嶋田邦雄
興味深い、刺激的な企画である。90%の期待と10%の不安を抱えてフェニックスホールへ向かった。10%の不安とは「聴衆はもともと演奏される音楽からさまざまなイメージをそれぞれの想いに従って紡ぎ出すはず。絵画を音楽に合わせて投射すると、却って聴衆の想像を限定することになるのでは……」といった疑念だった。しかし演奏が進むにつれ、その疑念は見事に瓦解された。音楽と絵画は“説明関係”ではなく、拮抗関係の中で対峙する。その中で、それぞれが存在しいた通常の形態を乗り越えて交錯、融合し、新しいイメージ世界を作り出す“運動”を始めていることに気付いた。それは明らかに通常の演奏とは違っていた。どの演奏者も皆、それぞれのイメージ世界を舞台に繰り広げていた。
開始はC.ドビュッシー。山片かおりが「前奏曲集」から“アナカプリの丘”と“花火”、そして「喜びの島」を弾いた。山片は演奏直前、絵画が投影されるステージ正面に心持ち視線を送った。艶のある音色で柔らかく、あるいは激しく奏されるピアノの響きに乗ってモネの「ひなげし」やワトー「シテール島への船出」などがこれまでとは違う息遣いで現れる。この拮抗関係は確かにこれまで味わったことのない体験だ。続く河合直子は「版画」の3曲(“パゴダ”、“グラナダの夕暮れ”、“雨の庭”)を演奏。モネの「ヴェネツィア」やシスレーの「霧の朝」などが対置されたが、ここでも“説明”的な関係はまったく感じさせない。河合はダイナミックでありながら幻想的な側面も覗かせる音色を際立たせた。
服部和揮子と陣門華子はM.ラヴェルの2曲を演奏した。服部の「クープランの墓」の4曲(プレリュード、フーガ、フォルラーヌ、トッカータ)にはルノワールの「草原の坂道」や「ぶらんこ」などが映し出された。どこかバロック音楽を想起させるような澄んだ音色のピアノと、牧歌的でありながら沈潜した想いを引き出すルノワールの画面が対話した。調和と同時に、それをどこかで抜け出そうとするような“動”を感じさせる対話であった。陣門の弾いた「夜のガスパール」の3曲(“オンディーヌ”、“絞首台”、“スカルボ”)はある意味で最も衝撃的な絵画との出会いを演出した。O.ルドンの神秘的で幻想に富んだ映像はむしろ異化された雰囲気を放射する。もともと音楽を熱愛していたというルドンがこの演奏のために用意したとまで考えたくなる(そんなことは、もちろんありえない話だが)ような張り詰めた空気に満たされた。特に“絞首台”に対置された「輪光の聖母」はその“救済”にも通じる“緊張と弛緩”のテンポによって思考を誘発する。聴衆はピアノの響きに自分自身の想いを対置したのだ。ダイナミズムの中に不気味さを加味したような陣門の音色がその効果を一層高めたことは言うまでもない。
後半は連弾、あるいは2台ピアノによる演奏で、響きをさらに深く広い世界へと誘導した。先ず、田中佳穂子と疋田尊子の連弾でドビュッシーの「6つの古代の墓碑銘」。コローの「パストラーレ」やプッサンの「アルカディアの牧人」、モローの「夜」、ターナーの「風景−タンバリンを持つ女」」、ロランの「カルタゴのディドに別れを告げるアイネイアス」などが曲の進行につれて次々と映し出される。音楽と絵画の実に興味深い対話が演出された。遥か古代の消え去りし歴史に想いを馳せる曲想が色彩感豊かで柔らかい音色にのって展開する。しかし、その想いは決して懐旧的な枯れたものではなく、むしろ艶めかしい。対置されるアルカイックな画面がそれを一層増幅する。でも、胸を高鳴らせるような不可思議な“刺激”がこの対比から生み出されたのはなぜだろう。考えようによっては説明的、あるいは解説的ともいえる絵画の選択だが、実際に映し出されてみると、それを超えた宇宙的な広がりを演出していたのが面白い。
坪本佐智子と湯川美佳(2台ピアノ)によるドビュッシー「白と黒で」にはルノワールの「ピアノを弾く婦人」、クリムトの「ピアノを弾くシューベルト」などが対置された。雰囲気の似た肖像画3枚が、どちらかといえば沈潜した音楽の雰囲気をうまく盛り上げたが、それは微妙に硬質な音質のピアノを的確に捕捉し、絵画のイメージによって展開させるものだった。抑制の効いた2人の演奏が印象に残る。
最後は大星直子と三宅宏実(2台ピアノ)によるラヴェル「ラ・ヴァルス」。元の管弦楽曲を髣髴とさせるシンフォニックな輝きがホールいっぱいに響いた。映し出されたのはルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」。激しい動きのピアノの曲想が、静止した1枚の画面と向き合う――この両者の息詰まる対峙が緊張をいや増す。もともと華やかな動きを静止画面の中に描き込んだ絵画だが、それがじっと静止したままで音楽と対峙する姿は糸を張り詰めた緊張状態に似ている。面白い拮抗関係を作り出した。ただ、2人の素晴らしいピアニズムを十分評価したうえで、あえて欲を言いたい点もある。ピアノの響きの中に、内省的な翳りをもっと投入してほしかった。陰陽両面のワルツへの想いがピアノによって描き出されたら、絵画との対比はさらに彫りの深いものになったと考えるからである。 |
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「アンサンブルは愉しい」
嶋田邦雄(2009.4/25)
室内楽のアンサンブルは確かに愉しい。今日聴いた『春薫―アンサンブルの愉しみVol.2』(4月25日ザ・フェニックスホール)は前半にモーツァルトの「ピアノ四重奏曲第1番ト短調K478」(久保敦子/Pf、釋伸司/Vn、三木香奈/Va、上塚憲一/Vc)ブラームスの「クラリネット三重奏曲イ短調」(新暁子/Cl、山本賀世子/Pf、左納実子/Vc)、後半にコダーイの「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲」(八幡順/Vn、大町剛/Vc)を配したプログラムだった。モーツァルト以外は演奏頻度がそれほど多い曲ではない。それにもかかわらず、全体に実に新鮮で、楽しい。演奏者と聴衆が組み合ってカドリールでも踊り合うような息を合わせた不思議な雰囲気が作り出された。
室内楽の場合、常時、演奏のために同じメンバーがグループを組むケースは少ない(弦楽四重奏団やピアノ・トリオなどの場合はその限りではないが)。その曲を演奏する時には真剣で厳しく長いプローベが繰り返されるにしても、オーケストラの場合とは違う“未知のぶつかり合い”がある。それぞれの音楽的主張を対峙させながら、作曲者の想いを演奏者の想いの統合した交差点の上に描き上げるぶつかり合いの作業である。そこには新鮮な息使いが生まれざるを得ない。馴れ合いを許す余地はないのだ。
モーツァルト「ピアノ四重奏曲第1番」で、久保、釋、三木、上塚のコンビはト短調への想いを強調した。各奏者が競い合うような技量の対峙は極力避け、沈潜した想いを常に見詰め続ける。そのため、憧れに満ちた第2楽章にも、希望を輝かせる第3楽章にも常に深い翳りがつきまとった。特に第3楽章の演奏法は私がこれまで聞いたものとはかなり違う、深淵を覗かせるような内容だった。華やかさをすべて消去した実に新鮮な演奏だった。
ブラームス「クラリネット三重奏曲」では時に、チェロが主導的な役を担い、曲想に変化を与えていたのが印象に残る。クラリネットがヴァイオリンだったら普通のピアノ・トリオになるのだが、クラリネットを投入することで独特の艶とその反面の翳りを引き出す。ブラームスの想いもそれによって内面の深淵をより深い色調で引き出そうとしたのではなかったか、と思う。チェロのアクセントはそれをさらに効果的に反射させた。音楽の言葉、思想を聴衆に問いかける意味も出てくる。何のケレンもない演奏なのに引き込まれたのはそのせいだろうか。
コダーイの「二重奏曲」は凄い。ヴァイオリンとチェロがこれほど激しく対峙し、和合しながら作り出した世界は実に多層的であり、天上と深淵を同時に提示しているようだ。いわゆるヨーロッパ音楽の語法を異化した独自の音楽世界だが、その響きが私には非常に親近感をもたらすものだった。まさに中部ヨーロッパの中で独自の社会、文化を構成してきたハンガリー民衆の想い(それは苦悩であり、また希望でもある)が息吹となって音世界に収斂され、聴衆に語りかけてきたのだ。それは私たちに「あなたの音楽的アイデンティティは何」と問いかけているようでもあり、深く考え込んだ。いや、思索への楽しい誘いであった。
室内楽が愉しいのは、ある意味で、演奏者と聴衆が一緒に音楽の“時間と空間”を作る楽しみでもある。そこではあまり知られていない曲の魅惑的な内容が双方の模索の中から姿を現してくる。プレ・トークで黒川浩明さんが語った山登りの楽しみにも通じるものだろう。深い霧の中から稜線がくっきりと浮き上がってくる喜び――それは確かに私たちの音楽への、あるいは現在の世界へのアプローチにも通じる。その喜びは(音楽が、世界へのアプローチが)“商品”として売りつけられるのでなく、ともにその創造、解明に参加する喜びだろう。そんな思いを巡らせた演奏会であった。
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