7/17(金)ザ・フェニックスホール
「夏祭なにわなくとも室内楽2009」
嶋田邦雄
なんという粋なタイトルだろう。
«絃高き調べ、いと高き世界……»
のサブ・タイトルで組まれた第2夜。極々真面目で、高度なプログラム構成とこの洒落た“遊び”はどのようにマッチするのだろう、との好奇心で会場に入った。正直言って、何日か続いた蒸し暑い、地獄の天気に私は心身ともに草臥れ果てていた。「出演者の体調不良により公演を延期します」なんて貼紙でも出ていれば・・・なんて不吉な期待がなかったとはいえない。
でも、そのような不謹慎な考えは裏切られるのが落ちである。まさに関西の中堅演奏家の真摯な演奏に出会えた。それまでの疲れは演奏が生み出す“思考への勧誘”によって、新しい想いを生むエネルギーに転化していった。ブラヴォ!
先ず、笹村直子(Pf)、田辺良子(Vn)、池川章子(Vn)、三木香奈(Va)、日野俊介(Vc)によるダリウス・ミヨーの『世界の創造』。
バレー曲(1923)をもとに1926年に「ピアノ五重奏曲」として作曲された曲だが、この企画の開始にはある意味で最も相応しい。
題名からは宗教的な天地創造との関連を考えたくなるだろうが、私はまったく違う考えをこの日の演奏から感じ取った。これは「人間による、新しい人間的“世界の創造”」だ。
初めのプレリュードでは明らかに、ピアノと弦楽器群は違う世界を奏でていた。それは、技能未熟者によるピッチの不整合とか、ズレとかではない。ピアノも弦もそれぞれ素晴らしい演奏をしながらそれは調和していない。ある意味では凄絶な異化を提示しながら、その中に凄まじいエネルギーの渦を覗かせる。それが進むにつれ、不思議な調和を作り出した。しかし、それは決して予定調和的な微温世界ではない。崩壊と破滅とを内包する瞬間的な調和世界である。その危機的な世界に現れるジャズの響き(それはスコット・ジョブリン的な懐かしさも含んでいたが)はまさにミヨーの時代の希望と危機意識とが綯い交ぜになった魅力に満ちた渾沌だ。5人のアンサンブルはこの希望と危機、調和と渾沌とを見事に音世界に昇華した。
続いて演奏されたのは田辺良子(Vn)と笹村直子(Pf)によるクロード・ドビュッシー『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』。
ドビュッシー最晩年の
1916-17年の作だ。沈潜した内省的な想いを凝縮した技法で構成した曲だけに、この日の奏者のように、思想も技能面も充実した内容を備えていないと演奏は無理だろう。ドビュッシーというと決まり文句のようについてまわる“印象派”のレッテルが何か虚しい空文句のように響く。そのような凄絶さと、同時に聴衆を包み込む優しさをも感じさせる演奏だった。
3曲目に配置されたのはモーリス・ラヴェルの『ピアノ三重奏曲』。細見理恵(Pf)と田辺良子(Vn)、斎藤建寛(Vc)のコンビが演奏した。
1914年、ちょうど第1次世界大戦が勃発したころの作品だ。複雑な想いが内包されているのだろうが、それはむしろ凝縮した完成度の高い作品内容として結実している。その緻密な内容をこのコンビは打打発止のぶつかり合いの中に構成した。といっても決して表面的な激しさを見せつけるのではない。内面へと向かってゆくエネルギッシュな融合のヴェクトルである。ラヴェル特有の色彩感は当然描き出されるが、それも決して浮き上がった原色の展示ではない。複雑に融合しながら、なおそれぞれ固有の色彩を持ち続ける奥深い色彩感がこのコンビによって引き出されたのだ。
それにして
も、3作品に連続して出演した田辺良子の内容の濃い活躍に注目したい。当然のことではあるが、ミヨー、ドビュッシー、ラヴェルとその音色を微妙に変える。ミヨーで示した一種、異化を内包した音色がドビュッシーでは輝きを内面に封じ込め、沈潜と枯淡を表面に引き出す。ラヴェルではその色彩が表に出てくるが、しかしそれも実に深い陰影に裏打ちされた音色である。笹村直子のピアノにもそれは共通することだが、このような企画だからこそ、聴衆はそれを目の当たりにすることができたのだろう。演奏者にとっては大変な負担だと思われる演目が奔放に配置されたのだ。聴衆にとってはクリナーリッシュな御馳走であることは間違いないのだが。
後半は先ず、日野俊介(Vc)と笹村直子(Pf)によるガブリエル・フォーレの『エレジー』と『シシリエンヌ』。
場内アナウンスで解説されたように、『エレジー』は1880年、『シシリエンヌ』は1898年と19世紀末の作品。内部に崩壊の危機を抱えながらもまだ旧世代の調和の残り火を吟味する感慨が感じられる。それは来るべき危機の時代を予感する20世紀の作品と微妙な差異を提示していて面白い。日野俊介のチェロはその味わいを実に深い音色で引き出し、この日最後の演目、オリヴィエ・メシアンの『世の終わりのための四重奏曲』をより強く印象付けながら引き出す役割を果たした。
『世の終わりのための四重奏曲』を演奏したのは宮本聖子(Pf)、池川章子(Vn)、青山秀直(Cl)、斎藤建寛(Vc)のメンバー。
この曲が作曲された経緯
は実に劇的である。1939年に『オルガンのための<栄光の聖体>』を作曲したあと、兵員として動員されたメシアンは翌、1940年にドイツ軍の捕虜に。収容されたシュレージエンのラーゲル内で1940−41年に創ったのがこの曲で、収容所内で初演されている。
8つの構成部分のサブ・タイトルを見る限り、かなり濃厚な宗教的な色彩を感じさせる。熱心なカトリック信者というメシアンの存在と関連付けてこの曲の中に「神への熱い帰依、讃歌」を見る指摘が多い。しかし、その指摘に十分耳を傾けながらも、私は同時に別の想いを読み取りたくなった。この日の演奏は私をそのよう
な想いに誘い込むほど凄絶なものであった。それは表面に現れる“神への讃歌”とは全く逆の“神の不在”,“不実な神への怒り”の視線である。
現代の世界に人間否定の殺戮がまかり通るのはなぜか、神はどこまで人間を試みれば気が済むのか――といった絶望感である。
旧約のヨブはありとあらゆる試み、責め、苛みを神から受け、信仰を失いかける。それでもなおヨブは神を棄てなかった。しかし、現代の合理化された組織的殺戮(場合によってはそれが神の意志に沿う行為であるとまでフレーム・アップされる殺戮)を放置する神とはいったい何なのか。
そう言えば、キリストも十字架上で息絶える前、「エリ、エリ、ラマ、サバプタニ(わが神、わが神、なに故われを見捨て給う)」と叫んだではないか。人々の罪を贖うためにキリストをこの世に遣わした(自分は一度も姿を現さずに)、などというのは初めから虚妄だったのではないか。神の不在――。この日の演奏は私の中にこんな想いをも強く刻み込んだのだ。
不協和を含む弦とピアノの絡み合い。鳥に託したクラリネットの叫び。これらはこの世の深淵を見詰める絶望と、それをなお乗り越えようとする希望とが融合した側面を示しているのではないか。
第8部の「イエスの不滅性への讃歌」で描き出されたピアノとヴァイオリンの極限まで凝縮された静かな叫びは、神の不在を乗り越えて自ら新しい神を創造することを宣言する、切ないまでの訴えではなかったか。
「“世の終わり”とは別の世の始まり」との解説をアナウンスは語った。その通りだろう。
ドイツのクリスマス聖歌に歌われる“Welt ging verloren, Christ ist geboren(世界は滅び、キリストが誕生した)”の理念は当然、メシアンの想い、この曲想の中にもあったことだろう。その出発点に立ちかえってみると、私の中に芽生えた想いはあまりにも冒涜的との誹りを受けて当然だろう。しかし、「神の不在」、「神の不実への怒り」などの疑念を通してしか、真の人間存在を見詰め直すチャンネルは開かれない、と私は思う。
そのような思考へのきっかけを提示してくれた「世の終わりのための四重奏曲」の優れた演奏者たち、またこれらのプログラムの構成、監修者とプロデューサーに心からの敬意を表したいと思う。「世界の創造」
に始まり「世界の終わり」を経てまた新たな世界が創られる。それがどのような世界になるのか――それを決定するのはやはり神でなく、人間だ!
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