♪ひとことメモがあります


コンサートレポート

2009年|2010年2011年

(2009/11/26、白石知雄)

「木曜リサイタル〜作曲家シリーズ」、この秋の第四夜は、土井緑によるショパン。二つの大作、ピアノ・ソナタ第2番と、近藤浩志を迎えたチェロ・ソナタを並べたプログラムである。

土井のピアノは、作品自体の力で客席を圧倒するタイプと言えるかもしれない。迷いのない歩みで、音楽の幹を見失わない演奏だった。変ロ短調ソナタの第3楽章、葬送行進曲の後半で巨大な音像がぐいぐい迫ってくるのは、圧倒的な場面だった。ただし、メロディーの端々には、ふとひと息つく瞬間がある。今回は、はっきり表に出てくることはなかったけれど、小品を中心に据えると、もしかすると、まったく違った一面を見せてくれるのではないか。演奏を聞きながら、つい、そんなことも空想してしまった。

大阪フィル以外に、アンサンブル・ベガやソロでも幅広く活動する近藤だが、ショパンのソナタを人前で弾くのは、実は初めてとのことだった。深い呼吸、朗々とした響きは、満を持した演奏の手応えを感じさせる。第3楽章の思わず吸い寄せられてしまいそうなメロディーから、最後は騎士道風に端正な第4楽章へ。

ムラマツ・リサイタルホール新大阪での3年間には、これが初リサイタルという人もいたし、おそらく日本初演となる珍しい作品の紹介もあった。色々なことに挑戦してきたこのシリーズだが、初顔合わせとなる二人が、フィナーレを大輪の華で飾ってくれた。

白石知雄(「木曜リサイタル」構成・監修、音楽評論家)

 

大胆で繊細なドビュッシー
(2009/11/12、白石知雄)

フランス音楽特集ということになると、どうしてもドビュッシーは欠かせない。ムラマツ・リサイタルホール新大阪の「木曜リサイタル〜作曲家シリーズ」、この秋の第3夜、笠原純子のピアノ・リサイタルは、押しも押されぬ代表作の「前奏曲集第1集」と、初期のピアノ三重奏曲。小品で水増しせずに本題に入るこのシリーズらしいプログラムだったと思う。

色彩がゆらめく印象派絵画への連想から、ドビュッシーの音楽は、あいまいで移ろいやすく、つかみどころがないと言われることもある。確かに謎めいてはいるし、口数は少ない。でも、実は、言うべきことを言い切っているのではいか。笠原の演奏を聴きながら、そんなことを考えた。

硬く決めつけるような弾き方ではないのだけれど、音は冴え冴えとして、どのようなタッチで、どの程度の明瞭さやぼかしを入れるのか、曲想をどういうタイミングで変化させていくか、常に狙いがはっきりしている。迷いがない。演奏自体は丁寧で、たっぷり時間をかけて一音ずつ読み解いてゆくのだけれど、曲間に思わせぶりな間合いを取ることはなく、一曲が終わると、サッと次へ切り替えるので、曲と曲とのコントラストがはっきりする。繊細さと、映画のモンタージュを思わせる大胆さのバランスが絶妙だった。

ピアノ三重奏曲は、サロン風の甘い響きや、若者らしい覇気があって、後年のイメージとは随分違う曲だが、笠原は、常に新しいものを求める姿勢が一環している、と見ているようだった。ヴァイオリンの井上隆平とチェロの日野俊介が、柔らかく流れるような曲線で歌おうとする一方で、ピアノの音はマス目にぴたりと収まる。ドビュッシーは、音楽院では反逆児だったと伝えられているけれど、それでもこの頃の楽譜は、音を厳しく追いつめるフランスのエリートのやり方で書かれている。自由に動こうとする衝動と、音で楽譜を埋めてしまう学生の習い性のバランスは危うい。綱渡りのスリルが演奏から伝わるところが興味深かった。たぶん、こういう曲なのだと思う。

白石知雄(「木曜リサイタル」構成・監修、音楽評論家)

 

フランクの慌てず揺るぎない歩み
(2009/11/5、白石知雄)

ムラマツ・リサイタルホール新大阪の「木曜リサイタル〜作曲家シリーズ」、この秋のコンセプトは、ライプチヒのブリュットナー社製ピアノで弾くフランス音楽だが、全4回の第2夜は、木下たまみがフランクを弾いた。もちろん彼はベルギー出身だが、長年ほとんど注目を浴びることなく教会のオルガンを弾き、世の中の情勢が変わった晩年に、周囲から掌を返したように持ち上げられる浮き沈みは、大都会パリでなければあり得ないだろう。

演奏会前半は「前奏曲、アリアと終曲」。会場は、ピアノを通して木下が音楽と対話する様子を傍らで見守るという雰囲気だった。特別な演出を施すわけではなく、その分、意外に起伏のある展開が素直に耳に入る。3つの曲が相互に響き合う仕掛けも、癖のない演奏なので把握しやすい。すべてが収まるべきところへ収まるまでの道のりをゆったり体験することができた。別の小品を前後に置かず、質素な教会の祭壇画を正面からじっくり眺めるような贅沢な時間の使い方ができるのは、公演時間を短めに設定している「木曜リサイタル」の利点かもしれない。

後半は「ヴァイオリン・ソナタ」、共演は若手の木須すみれ。凛とした音で、ストイックすぎるかと思うほど弓の動きを抑制する清潔な演奏だった。ピアノは、びっしり書き込まれた譜面と挌闘する場面がどうしても出てきてしまうが、ヴァイオリンは集中力を切ることなく歌い上げた。前半の独奏曲と違って波瀾万丈の音楽だが、演奏は、フランクらしい真っ直ぐ一本筋の通ったものになっていたのではないだろうか。

白石知雄(「木曜リサイタル」構成・監修、音楽評論家)

 

ラヴェルは一見クールな完璧主義者だけれど…
(2009/10/29、白石知雄)

外気が急に冷たくなって、そろそろ上着が欠かせない。そういえば、すっかり日が短くなった。そうなると、ムラマツ・リサイタルホール新大阪「木曜リサイタル〜作曲家シリーズ」の季節。この秋は、全4回を通してライプチヒのブリュットナー社のピアノを使い、ひと味違ったフランス音楽特集である。

第1回目は、加藤理彩子によるラヴェル。ある本で見つけた「ラヴェルには深い優しさがある」という言葉が強く印象に残っている、と彼女はトーク・コーナーで語ってくれた。1曲目の「ソナチネ」を慈しむように弾いたのは、そういうことだったのかと納得する。この作曲家を「クールな完璧主義」などと決めつけないほうがいい、ということだと思う。

2曲目の「高雅で感傷的なワルツ」は、ダイナミックな起伏を付けて、思い切りの良い演奏だが、それでも、弱音の箇所は、ブリュットナー特有の良い意味でくすんだ音がして、サロン風の味わいになる。こんな面もあり、ここはまた違った感じ……と、自然体で曲想の変化に寄り沿う演奏だった。

後半は、岩谷裕之を迎えて、「子守唄」と「ヴァイオリン・ソナタ」。朗々と楽器を鳴らして、関西フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスター席にいるときと同じように、音楽をぐいぐい引っ張っていく。ソナタ第3楽章のスピード感は、なるほど第一次世界大戦が終わって、自動車が街を滑走する時代の音楽。ラヴェルが一挙に若返る印象だった。それでも、パートナーの存在を無視しているわけではないし、加藤のピアノも、迫力満点のヴァイオリンを無理せず上手に受け止めた。

白石知雄(「木曜リサイタル」構成・監修、音楽評論家)

 

10/21(水)ザ・フェニックスホール
「小松英典が歌う珠玉のドイツ歌曲」 嶋田邦雄

もう20年ほど前のことだが、小松英典さんの話を梶本音楽事務所の応接間で聞いたことがある。「ドイツで暮らしていると、シューベルトやマーラー、リヒャルト・シュトラウスなどの雰囲気を身近に感じられていいですね」と問いかけた時、小松さんからは意外な言葉が返ってきたことを覚えている。「いや、今ドイツの街で聞かれるのはシューベルトとはかけ離れた音楽ですよ。いわゆる“クラシック音楽”は日本以上にマイナーですよ」と語る彼の顔は心做しか寂しそうな表情に変っていた。小松さんの厳しい内面、密かに抱える苦悩が彼の歌唱にどのような“深み”を積み重ねてきたのか、を再確認したい気持ちがあったことも告白しなくてはならない。

小松英典の明瞭で音楽に昇華されたドイツ語は鋭く、しかし優しく私の胸の中に入り込んできた。ドイツ語を母語とするような自在さと同時に、それをさらに異化して歌詞の意味を聴衆に問いかけるような真摯さがひしひしと伝わってくる。シューベルトのあの「魔王」ではまさに劇的な叙事が、必死に訴える子供と、「何もないんだよ」と宥める父親、甘く囁きかける魔王との間の微妙な“断絶と繋がり”の呼吸が痛いほどに放射される。<In seinen Armen das Kind wartot.>と呟くように歌った最後のフレーズは一瞬、会場の空気を凍りつかせるような凄絶なものだった。コルト・ガーベンのピアノも小松英典の呼吸を瞬時にとらえて緊張した世界を構成する巧みな伴奏だ。

この日、小松が選んだのはすべてピアノが歌唱と対峙しながら独特のリートの世界を作り上げてゆく曲ばかりで、それぞれに彫りの深い物語を内包している。それらは癒されることのない悲しみ、あるいは喜び、果たされない想いや切ないほどの憧れ、諧謔などを伝えてくれたが、小松とガーベンの音楽によって詩のなかに封印されていたそれらの物語があたかも蘇生し、息を吹き込まれたようであった。マーラーの“子供の魔法の角笛”にはもともと苦難の中に生きる民衆のユートピアが濃厚に息ついているように思う。小松の歌唱はまさにそのユートピアを私たちに提示してくれた。ほほえみの表情の裏に隠れている苦悩や悲哀をも巧みに引き出しながら。

最後に、小松がアンコールで歌ったブラームスの『子守唄』の凄絶さに打たれたことも書かなければならない。フェニックスホールの壁が引き上げられ、車のライトに浮かぶ夜の街に感激し表情で小松は歌った。その中の一節、…… morgen fruh wenn Gott will, wirst du wieder geweckt……はこのコンサート直後に私自身が体験した心筋梗塞による入院の際に夜毎、頭に、心に響いてくる一節であった。もちろんカテーテル処置の際にも。小松英典のコンサートについて書きたいとの焦りを抱きながら病院のベットで悶々としていたが、やっとでてきて、再び書くことのできる幸せをかみしめている。

 

ピアノとクラリネットで綴るシューマンのファンタジー
(2010/9/26、白石知雄)

4年目に入った「作曲家シリーズ」、今秋はザ・フェニックスホールに場所を移して、5回のシリーズでお届けすることになった。ピアノ・ソロとゲストを迎えた室内楽を組み合わせるスタイルはこれまでと変わらない。演奏空間は一回り大きくなったが、2階席もステージをさほど遠く感じることのない配置なので、変わらずアット・ホームな雰囲気で進めることができているように思う。

今年は、ロマン派の二大ピアノ作曲家の記念の年で、もちろん、このシリーズにもショパンとシューマンが含まれている。今秋第1回の福井真裕子は、さっそく生誕200年を迎えたシューマンの特集である。

ファンタジーをテーマにして、前半に「幻想小曲集」という同じタイトルのピアノ曲と、クラリネット曲(福井聡との共演)を並べて、後半はピアノ独奏の「幻想曲」。福井の演奏は折り目正しく、「飛翔」や「夜に」などでは芯の強さを感じさせた。二重奏も音楽的にはピアノ主導で、その上に福井聡のクラリネットの柔らかい響きが加わる形。タイトルは同じだが、こちらは秋を感じさせるしっとりした演奏になった。

後半の「幻想曲」は入りくんだ構成の作品だが、ピアノに迷いはない。第2楽章も安定している。そして第3楽章では、くっきりと複数の声が絡み合う様子が手に取るようにわかる。耳が良く、客観的に音楽の形をとらえる堅実なシューマンだったと思う。

白石知雄(「作曲家シリーズ」構成・監修、音楽評論家)

 

7/17(金)ザ・フェニックスホール
「夏祭なにわなくとも室内楽2009」 嶋田邦雄

なんという粋なタイトルだろう。 «絃高き調べ、いと高き世界……» のサブ・タイトルで組まれた第2夜。極々真面目で、高度なプログラム構成とこの洒落た“遊び”はどのようにマッチするのだろう、との好奇心で会場に入った。正直言って、何日か続いた蒸し暑い、地獄の天気に私は心身ともに草臥れ果てていた。「出演者の体調不良により公演を延期します」なんて貼紙でも出ていれば・・・なんて不吉な期待がなかったとはいえない。
でも、そのような不謹慎な考えは裏切られるのが落ちである。まさに関西の中堅演奏家の真摯な演奏に出会えた。それまでの疲れは演奏が生み出す“思考への勧誘”によって、新しい想いを生むエネルギーに転化していった。ブラヴォ!

先ず、笹村直子(Pf)、田辺良子(Vn)、池川章子(Vn)、三木香奈(Va)、日野俊介(Vc)によるダリウス・ミヨーの『世界の創造』。
バレー曲(1923)をもとに1926年に「ピアノ五重奏曲」として作曲された曲だが、この企画の開始にはある意味で最も相応しい。
題名からは宗教的な天地創造との関連を考えたくなるだろうが、私はまったく違う考えをこの日の演奏から感じ取った。これは「人間による、新しい人間的“世界の創造”」だ。
初めのプレリュードでは明らかに、ピアノと弦楽器群は違う世界を奏でていた。それは、技能未熟者によるピッチの不整合とか、ズレとかではない。ピアノも弦もそれぞれ素晴らしい演奏をしながらそれは調和していない。ある意味では凄絶な異化を提示しながら、その中に凄まじいエネルギーの渦を覗かせる。それが進むにつれ、不思議な調和を作り出した。しかし、それは決して予定調和的な微温世界ではない。崩壊と破滅とを内包する瞬間的な調和世界である。その危機的な世界に現れるジャズの響き(それはスコット・ジョブリン的な懐かしさも含んでいたが)はまさにミヨーの時代の希望と危機意識とが綯い交ぜになった魅力に満ちた渾沌だ。5人のアンサンブルはこの希望と危機、調和と渾沌とを見事に音世界に昇華した。

続いて演奏されたのは田辺良子(Vn)と笹村直子(Pf)によるクロード・ドビュッシー『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』
ドビュッシー最晩年の 1916-17年の作だ。沈潜した内省的な想いを凝縮した技法で構成した曲だけに、この日の奏者のように、思想も技能面も充実した内容を備えていないと演奏は無理だろう。ドビュッシーというと決まり文句のようについてまわる“印象派”のレッテルが何か虚しい空文句のように響く。そのような凄絶さと、同時に聴衆を包み込む優しさをも感じさせる演奏だった。

3曲目に配置されたのはモーリス・ラヴェルの『ピアノ三重奏曲』。細見理恵(Pf)と田辺良子(Vn)、斎藤建寛(Vc)のコンビが演奏した。
1914年、ちょうど第1次世界大戦が勃発したころの作品だ。複雑な想いが内包されているのだろうが、それはむしろ凝縮した完成度の高い作品内容として結実している。その緻密な内容をこのコンビは打打発止のぶつかり合いの中に構成した。といっても決して表面的な激しさを見せつけるのではない。内面へと向かってゆくエネルギッシュな融合のヴェクトルである。ラヴェル特有の色彩感は当然描き出されるが、それも決して浮き上がった原色の展示ではない。複雑に融合しながら、なおそれぞれ固有の色彩を持ち続ける奥深い色彩感がこのコンビによって引き出されたのだ。
それにしても、3作品に連続して出演した田辺良子の内容の濃い活躍に注目したい。当然のことではあるが、ミヨー、ドビュッシー、ラヴェルとその音色を微妙に変える。ミヨーで示した一種、異化を内包した音色がドビュッシーでは輝きを内面に封じ込め、沈潜と枯淡を表面に引き出す。ラヴェルではその色彩が表に出てくるが、しかしそれも実に深い陰影に裏打ちされた音色である。笹村直子のピアノにもそれは共通することだが、このような企画だからこそ、聴衆はそれを目の当たりにすることができたのだろう。演奏者にとっては大変な負担だと思われる演目が奔放に配置されたのだ。聴衆にとってはクリナーリッシュな御馳走であることは間違いないのだが。

後半は先ず、日野俊介(Vc)と笹村直子(Pf)によるガブリエル・フォーレの『エレジー』と『シシリエンヌ』
場内アナウンスで解説されたように、『エレジー』は1880年、『シシリエンヌ』は1898年と19世紀末の作品。内部に崩壊の危機を抱えながらもまだ旧世代の調和の残り火を吟味する感慨が感じられる。それは来るべき危機の時代を予感する20世紀の作品と微妙な差異を提示していて面白い。日野俊介のチェロはその味わいを実に深い音色で引き出し、この日最後の演目、オリヴィエ・メシアンの『世の終わりのための四重奏曲』をより強く印象付けながら引き出す役割を果たした。

『世の終わりのための四重奏曲』を演奏したのは宮本聖子(Pf)、池川章子(Vn)、青山秀直(Cl)、斎藤建寛(Vc)のメンバー。
この曲が作曲された経緯 は実に劇的である。1939年に『オルガンのための<栄光の聖体>』を作曲したあと、兵員として動員されたメシアンは翌、1940年にドイツ軍の捕虜に。収容されたシュレージエンのラーゲル内で1940−41年に創ったのがこの曲で、収容所内で初演されている。
8つの構成部分のサブ・タイトルを見る限り、かなり濃厚な宗教的な色彩を感じさせる。熱心なカトリック信者というメシアンの存在と関連付けてこの曲の中に「神への熱い帰依、讃歌」を見る指摘が多い。しかし、その指摘に十分耳を傾けながらも、私は同時に別の想いを読み取りたくなった。この日の演奏は私をそのよう な想いに誘い込むほど凄絶なものであった。それは表面に現れる“神への讃歌”とは全く逆の“神の不在”,“不実な神への怒り”の視線である。

現代の世界に人間否定の殺戮がまかり通るのはなぜか、神はどこまで人間を試みれば気が済むのか――といった絶望感である。
旧約のヨブはありとあらゆる試み、責め、苛みを神から受け、信仰を失いかける。それでもなおヨブは神を棄てなかった。しかし、現代の合理化された組織的殺戮(場合によってはそれが神の意志に沿う行為であるとまでフレーム・アップされる殺戮)を放置する神とはいったい何なのか。
そう言えば、キリストも十字架上で息絶える前、「エリ、エリ、ラマ、サバプタニ(わが神、わが神、なに故われを見捨て給う)」と叫んだではないか。人々の罪を贖うためにキリストをこの世に遣わした(自分は一度も姿を現さずに)、などというのは初めから虚妄だったのではないか。神の不在――。この日の演奏は私の中にこんな想いをも強く刻み込んだのだ。

不協和を含む弦とピアノの絡み合い。鳥に託したクラリネットの叫び。これらはこの世の深淵を見詰める絶望と、それをなお乗り越えようとする希望とが融合した側面を示しているのではないか。
第8部の「イエスの不滅性への讃歌」で描き出されたピアノとヴァイオリンの極限まで凝縮された静かな叫びは、神の不在を乗り越えて自ら新しい神を創造することを宣言する、切ないまでの訴えではなかったか。

「“世の終わり”とは別の世の始まり」との解説をアナウンスは語った。その通りだろう。
ドイツのクリスマス聖歌に歌われる“Welt ging verloren, Christ ist geboren(世界は滅び、キリストが誕生した)”の理念は当然、メシアンの想い、この曲想の中にもあったことだろう。その出発点に立ちかえってみると、私の中に芽生えた想いはあまりにも冒涜的との誹りを受けて当然だろう。しかし、「神の不在」、「神の不実への怒り」などの疑念を通してしか、真の人間存在を見詰め直すチャンネルは開かれない、と私は思う。
そのような思考へのきっかけを提示してくれた「世の終わりのための四重奏曲」の優れた演奏者たち、またこれらのプログラムの構成、監修者とプロデューサーに心からの敬意を表したいと思う。「世界の創造」に始まり「世界の終わり」を経てまた新たな世界が創られる。それがどのような世界になるのか――それを決定するのはやはり神でなく、人間だ!

 

ムソルグスキー降臨
(2009/6/25、白石知雄)

「木曜リサイタル〜作曲家シリーズ」今期の最終回は森口綾子と、ソプラノのスビャーギナ章子によるムソルグスキー特集。歌曲集「子供部屋」と組曲「展覧会の絵」の組み合わせである。

「子供部屋」の歌詞は、格調高く言葉の調子を整えた文学的な「詩」ではない。ばあやに甘えたり、お人形に話しかけたり、かぶとむしに怯えたり……、現実世界の中で生きている子供の言葉がそのまま封じ込められている。今回は、実際に身体を動かして、必要とあれば小道具も用意して、言葉の背後にある現実を舞台上に呼び戻そうとする演奏だった。曲間に詩の内容を演奏者の二人でわかりやすく解説しながらの進行で、声色や口調の面白さが生き生きと伝わってきた。

森口は、ムソルグスキーは決して粗野ではなく、モーツァルトに負けないほど一音一音を厳選した「ピュア」な音楽だと言う。たしかに、「展覧会の絵」のプロムナードを彼女が丁寧に弾くと、実に美しい曲線を描く「歌」が聞こえてくる。道ばたの汚い石ころと思っていたものが、泥やホコリを払いのけると、優しくほほえむ聖母像だったというわけだ。

こびとが耳に直接ぶつかってきそうな実在感で痙攣するかと思えば、次のプロムナードは向こう側が透けて見える半透明のピアニシモ、チュイルリーの子供たちは羽毛のように軽いタッチ、牛車はズルズル引きずる重い足取り。「瞬間の真実」をつかみ取る手つきは、案外ドビュッシーやラヴェルに近い。

とはいえ、ひたすらキレイで清潔で、牙を抜かれた「お上品」な演奏というわけではない。「バーバ・ヤーガ」では、ヴィルトゥオージティを炸裂させた。やるときはやる。一切の因襲を吹き飛ばす団十郎の「荒事」の所作、拘束具を食い破るエヴァンゲリヲン覚醒と言ったところか。そして獰猛な怪物性を本気で解放したあとだと、「キエフの大門」が、地霊を鎮める荘厳な鐘の響きそのものだと思えてくる。「カタコンブ」のあとに死者と対話する場面があるけれど、この作品には、ロシアの大地に潜む「何か」を呼び覚ます呪術的な力がある。霊媒師が自らの肉体に祖霊を降ろすように、本気で「なりきる」のがムソルグスキーのリアリズム。そのことを圧倒的な説得力で教えられる演奏会だった。

白石知雄(「木曜リサイタル」構成・監修、音楽評論家)

 

男たちのモーツァルト
(2009/6/18、白石知雄)

モーツァルトを弾くとなると、どうしても古典派特有の「作法」が問題になる。鬘を付けて、宮廷の装束を身に纏ったコスチューム・プレイのように、18世紀のロココ調で「演技する」ことになりかねない。音色も、金銀財宝をちりばめた華やかな王宮への連想から、キラキラ輝くタッチに傾きがちだ。でも、「木曜リサイタル〜作曲家シリーズ」今期第5回の中村勝樹は、こうした演奏に向いていると思えるスタインウェイではなく、ワイマール留学中から馴染みがあるというブリュットナーを選んで、借り物ではない「自分の声」が響くモーツァルトを聞かせてくれた。

前半は、ハ短調の幻想曲K.475と同じ調のソナタK.457。「間」の取り方が良く、落ち着いて次を準備しながら弾き進めるので、幻想曲の曲想の変転が素直に耳に届く。ソナタも、特に第2楽章で旋律が中低音域に移ると、ブリュットナーの渋い音色が生きる。ソプラノで声を転がすのではなく、テノールやバリトンの肉声で歌っているみたいだった。第3楽章の流れを苛立たしく断ち切るようなパッセージも、遠慮なく踏み込み、きれい事では終わらせない。

後半の室内楽は、ヴァイオリンがギオルギ・バブアゼ、チェロは日野俊介。男性三人が並ぶ舞台の光景は、まるでフリーメイソンの集会のようだ。実際には、この曲は弟子の子女のピアノを想定して書かれたらしいのだけれど、古い「伴奏つきピアノ・ソナタ」の枠を脱してチェロが自由に歌い、ピアノと弦楽器の対話が緊密なので、遠慮のない仲間同士の「対話」に聞こえる。第1楽章は、軽やかな疾走の意識が強すぎたのか少々慌ただしかったが、第3楽章の変奏曲は、協奏曲風の見せ場もあり、聴き応え十分。

アンコール曲は、がらりと気分を変えて、「グラス・ハーモニカのためのアダージォ」。高音域の共鳴弦が効果を発揮する。この楽器の特徴を良くわかっているな、と思わせる心憎い選曲だった。

白石知雄(「木曜リサイタル」構成・監修、音楽評論家)

 

6/17(水)兵庫県立芸術文化センター・小ホール
「Fresh Concert Vol.10」嶋田邦雄

若い世代の音楽家には誰にでも無限の可能性が秘められている。その一端を披露する機会がこのようなコンサートだと思う。いわゆる“おさらい会”や“発表会”ではない。ある意味で自立した演奏者を目指す自由さが魅力となって、演奏内容も豊かなものに昇華している。この日(6月17日・兵庫県立芸術文化センター小ホール)演奏したのはピアノ3人、フルート2人、声楽4人(ソプラノ3、メゾ・ソプラノ1)だった。第1部、第2部の順番にかかわりなく、部門別に寸評を試みたい。

先ず<ピアノ>。第1部で小合麻里奈が弾いたのはマルタンの「ピアノのための8つの前奏曲」から第2・5・8番の3曲。艶のある柔らかい音色が曲の色彩感を的確に引き出した。ただ、慾を言えば、3つの前奏曲を通して一つの物語を構成するような曲ごとの変化を描き出して欲しかった。8つの前奏曲全体だと当然、それは出てくるはず。何か物足りなさを感じたのは惜しい。第2部では進藤真琴がラヴェルの「ボロディン風に」「シャブリエ風に」「古風なメヌエット」を弾いた。どことなくスラヴ的な雰囲気がいかにもシャブリエ的な曲想に移り、それはさらに透明感の強いバロック風な舞曲の雰囲気を演出する。それでいて、全体はあくまでもラヴェルの音である。面白い。全体の最後に演奏されたのは齋藤雅によるヒナステラの「ソナタ 作品22」。熱のこもったダイナミックな演奏がヒナステラ特有の世界を引き出した。その中でシンコペーション的な跳躍を巧みに演出した第1楽章、沈潜した透徹の世界を投影した第3楽章、再び激しいパッションを前面に出しながら、それはどこか澄み切った世界に変容している第4楽章、と全体で大きな物語世界を描き出していた。技巧面も、内容の深い彫り込みの面でも注目に値する。Fresh Concertを締めくくるのに相応しい演奏であった。

<フルート>では第1部で中右奈美がG.ショッカーの「エアボーン」を演奏した(ピアノは西口淑子)。膨よかな音色だ。自然と一体化するような音世界が滑らかな流れの中に描き出された。フルートだからこそ作り出せる音世界である。ただ、自然に溶け込む音色と、それを異化するような音がその流れの中に共存している。その違和を立体的に引き出したら、曲の面白さはもっと強調されたと思うのだが。第2部で内藤安佐子はクーラウの「序奏とロンド」を披露した(ピアノは渡邊つかさ)。典雅という表現がいいのだろうか。端正な演奏が柔和で暖かい音色から紡ぎ出される時、何か特別な物語が語られているような雰囲気に包まれる。それは演奏者自身がこの曲想に自分の想いを重ね合わせ、新しい音楽世界へと昇華させた結果なのだろう。魅力に満ちた演奏である。

<声楽>第1部では先ず、松本知子(ソプラノ)がドニゼッティ「一滴の涙」とヴェルディの歌劇「エルナーニ」の中のアリア“エルナーニ、私を奪って逃げて”を歌った(ピアノは原田寛子)。松本のヴィブラートを全く使わない歌唱に接した時、何と清々しい雰囲気に包まれたことか。バロック曲のような透明さが歌曲あるいはアリアを包む。情熱に満ちたひたむきな歌唱が曲を盛り上げるが、決して発声は明瞭で濁らない。力量を積んだはずのヴェテラン歌手がヴィブラートを乱用し、発声は濁り、歌詞も曖昧になっているステージにこれまで何度も出合っている。それに比べ、松本の歌唱に実に爽やかな印象を受けたのは一つの貴重な発見であった。

続いて斉藤智美(ソプラノ)が團伊玖磨の「紫陽花」とドヴォルジャークの歌劇「ルサルカ」から“月に寄せる歌”を披露した(ピアノは大谷祥子)。エネルギッシュで、これまでにかなり歌い込んでいる鍛錬された声である。どちらかと言えば、燻し銀の輝きである。「紫陽花」はあの雨の季節に静かに地味な花を咲かせる、というより、派手に大輪を開いているような曲想(團伊玖磨の)だが、それを斉藤はできる限り抑制していた。適切な処理だ。「月に寄せる歌」ではもう少しスラヴ語特有の粘りつくような発音を聞かせて欲しかった。彫りの深い歌唱で内容の濃さが引き出されているだけに欲を言いたくなる。

第2部では阪上真知子(メゾ・ソプラノ)が中田喜直の「ゆく春」と、モーツァルトの歌劇「皇帝ティートの慈悲」の中の“行きます、だが愛しい人よ”を歌った(ピアノは大谷祥子)。力量のある演奏家である。声の独特の膨らみで包み込むような歌唱は歌う曲の魅力を倍加して聴衆に届ける力を持っている。ただ、感じたのは歌詞内容がかなり曖昧になってしまうこと。歌詞を明瞭に発声するといっても、それは朗読ではなく、音楽としての明瞭さである。その点を考えて発声を試みればさらに魅力的なものになると思う。

白濱梨枝子(ソプラノ)はドニゼッティの歌劇「ランメルモールのルチア」から“香炉はくゆり”を披露した(ピアノは梶原晴子)。よく知られたアリアだけに、どのように歌うか、白もプレッシャーが少なくなかったろうと思う。素晴らしいステージだった。あの歌劇の内容を十分に咀嚼していることは歌いながら“自然に”身体の各部分が動く様によっても分かる。決して大きな動きではない。歌唱が必然的に生み出す動きなのだ。だからこそ、あれだけの長いシーンを緊張を持続したまま歌唱によってリードすることができたのだろう。注目したい舞台の一つである。

演奏者についてのコメントは以上の通りだが、一つ気になったことについて簡単に触れておきたい。それは聴衆の問題である。自分が関係している演奏者がステージを降りるとその奏者と一緒に客席を後にする人が少なからずいた。これだったら“おさらい会”や“発表会”とあまり変わらなくなってしまうのではないか。Fresh Concertはあくまでもコンサートであると私は考える。無限の才能を秘めた若い音楽家の“芽”を温かく見守ろうではないか。自分と関係のない演奏者の才能にも敬意を払い、注目する目を私たちが持ちたい。その積み重ねの中から若い芽が育つ土壌は準備されるのだと私は思う。

 

5/31(土)兵庫県立芸術文化センター 神戸女学院・小ホール
「斎藤建寛・細見理恵 デュオリサイタル」嶋田邦雄

この日、前半に演奏されたC.ドビュッシーとA.シュニトケの「チェロとピアノのためのソナタ」が投げかけた衝撃は何日か経った今でも私の心の片隅をしっかりと占拠している。斎藤建寛の弾くチェロ(これまでに何度か聞いているが、ピアノはいつも細見理恵だったと記憶する)は決してメロディー・ラインを追うのでなく、一音、一音を積み重ねていく奏法に特徴付けられているように思う。その一音一音には凝縮された世界観や想い(それは作曲者の想いを必死に探ろうと迫る演奏者の想いだろう)が内包され、それが流れとして結び合わされた結果、一つのメロディーとして構成される。その演奏はどんなに聴き慣れた曲でも、初めて聴くような新鮮さを放射する。ドビュッシーとシュニトケの演奏では斎藤のこの奏法が特に効果的に機能していた。

ドビュッシーの「チェロとピアノのためのソナタ」は1915年、彼の死の3年前に作曲されている。斎藤が指摘するように、病に冒された作曲者が自分を内省的に振り返り、見詰める凄絶な眼差しを感じる。同時に、ドビュッシーは彼が積み重ねてきた数々の音楽語法の革命的な試みを自分から切り離し、それすらも“他者”として見詰める透徹した視線を放射している。第2楽章でピツィカートがピアノと交わす交錯した対話にそれは端的に描き込まれていると思う。チェロとピアノという純化された音世界にこそ、無限の問いかけや静かな叫びなどが凝縮された結晶体となって描き込めたのだろう。それが斎藤の深く見透すようなチェロとそれを側面から静かに支える細見のピアノによって引き出されたのだ。

シュニトケの「チェロとピアノのためのソナタ」の衝撃はそれ以上のものだった。それは確かに“祈り”である。満身創痍になりながらもなお立ち続けようとする求道者の気迫と尊厳を感じさせる。作曲された年代(1978年)を考えると、彼を取り巻く政治体制との緊張関係を抜きにしてこの凄絶なメッセージを汲み取ることは出来ないだろう。

しかし、これはショスタコーヴィチなどについても言えることだが、作曲者の苦悩を政治、あるいは社会体制(ソヴェト)の“犠牲”という側面からだけ捉える風潮に私は疑念を抱いている。芸術家の思考をそれほど単線的な問題に還元することはできない。その俗化された風潮はソ連時代の芸術家に共感しながらも、結果的に彼らの思想を矮小化することにもなりかねない。歴史が大きく変わる時代に生きる芸術家は否応なしにその巨大な“変革”を芸術としてどう捉え、描くか、の課題と向き合う。1917年のロシアでの社会主義革命はある意味で巨大な歴史の実験だった。「人間による人間の抑圧、搾取をすべて廃絶する」との理想を現実の社会システムとして実現した革命。その理念には大半の芸術家が心から賛同していた。しかし、“現実のものとなったユートピア”をどのようにして永続させるか、への考えは当然のことながらさまざまに異なる。それまで芸術らしい芸術に接する機会のなかった民衆に「どのようにして芸術を届けるか」、あるいは「革命に時代の芸術の在り方」を巡る革命指導部と芸術家たちの乖離が修復不可能にまで広がったのも事実だ。今、私たちが観察の対象にしている“ソ連社会における芸術家の悲劇”はその歴史的な過程の中で生み出された。しかし、芸術家たちは決して負け犬的な犠牲者ではなかった。彼らなりに新しい時代の芸術をどのように創ったらいいのか、その形式はどうなるか、などの課題について、意識的であろうとなかろうと、真剣に向き合っていた。政治権力との緊張関係をすら彼らの芸術の巨大な栄養源にして、より深く彫り込んだ、むだのない、凝縮した音楽語法を創り出すのに成功した芸術家もいる。シュニトケはまさにその一人だった。

一切の情緒を排除した、刻みこむような透徹した斎藤のチェロに、ある時は激しく、ある時は限りない優しさで語りかける細見のピアノはシュニトケの苦悩を私たちの時代の苦悩に重ね合わせるものだった。シュニトケの訴えを聞き、その痛みを自分自身の痛みとして私たちが引き受けるとき、そこに初めて“歴史の救済”が実現するだろう。そのような示唆を私たちに投げかけた斎藤のチェロが、その透徹した音の背後に限りない暖かさを内包していることに私が気づいたのは、斎藤が弓をチェロから離した瞬間だった。

後半のプログラムにはある意味で前半と対照的な演目が配置されていた。ハイドンの「ディヴェルティメント ニ長調」を斎藤はバロック楽器、バリトンのような音色で演奏した。“本当にハイドンの作品であるかどうか不明”という由来は私たちにむしろ実用音楽が証明する興味深い音楽の側面を伝えているように感じた。それは、“誰それの作品”というより、ハイドンの時代の作品であることを如実に示している。王侯、貴族の慰みとしての実用音楽に示された“形式”や“内容構成”が簡潔に、楽しく提示されていた。

最後はR.シュトラウスの「チェロとピアノのためのソナタ ヘ長調」。瑞々しい若さと、成熟した沈潜とが入り混じりながら破綻を見せない構成で進行した。聴きやすい。斎藤と細見の演奏でそれは可能になったことだろう。コンサートの締めくくりとしては望ましい選曲だ。ただ、私個人としてはシュニトケの痛みを背負い、その祈りにも似た響きを心に刻み込み、いつまでも引き摺っていたい想いもある。それほどに衝撃的な演奏会だった。

 

5/30(土)ザ・フェニックスホール
「フランス印象派音楽と絵画の出会い」嶋田邦雄

 興味深い、刺激的な企画である。90%の期待と10%の不安を抱えてフェニックスホールへ向かった。10%の不安とは「聴衆はもともと演奏される音楽からさまざまなイメージをそれぞれの想いに従って紡ぎ出すはず。絵画を音楽に合わせて投射すると、却って聴衆の想像を限定することになるのでは……」といった疑念だった。しかし演奏が進むにつれ、その疑念は見事に瓦解された。音楽と絵画は“説明関係”ではなく、拮抗関係の中で対峙する。その中で、それぞれが存在しいた通常の形態を乗り越えて交錯、融合し、新しいイメージ世界を作り出す“運動”を始めていることに気付いた。それは明らかに通常の演奏とは違っていた。どの演奏者も皆、それぞれのイメージ世界を舞台に繰り広げていた。

 開始はC.ドビュッシー。山片かおりが「前奏曲集」から“アナカプリの丘”と“花火”、そして「喜びの島」を弾いた。山片は演奏直前、絵画が投影されるステージ正面に心持ち視線を送った。艶のある音色で柔らかく、あるいは激しく奏されるピアノの響きに乗ってモネの「ひなげし」やワトー「シテール島への船出」などがこれまでとは違う息遣いで現れる。この拮抗関係は確かにこれまで味わったことのない体験だ。続く河合直子は「版画」の3曲(“パゴダ”、“グラナダの夕暮れ”、“雨の庭”)を演奏。モネの「ヴェネツィア」やシスレーの「霧の朝」などが対置されたが、ここでも“説明”的な関係はまったく感じさせない。河合はダイナミックでありながら幻想的な側面も覗かせる音色を際立たせた。

 服部和揮子と陣門華子はM.ラヴェルの2曲を演奏した。服部の「クープランの墓」の4曲(プレリュード、フーガ、フォルラーヌ、トッカータ)にはルノワールの「草原の坂道」や「ぶらんこ」などが映し出された。どこかバロック音楽を想起させるような澄んだ音色のピアノと、牧歌的でありながら沈潜した想いを引き出すルノワールの画面が対話した。調和と同時に、それをどこかで抜け出そうとするような“動”を感じさせる対話であった。陣門の弾いた「夜のガスパール」の3曲(“オンディーヌ”、“絞首台”、“スカルボ”)はある意味で最も衝撃的な絵画との出会いを演出した。O.ルドンの神秘的で幻想に富んだ映像はむしろ異化された雰囲気を放射する。もともと音楽を熱愛していたというルドンがこの演奏のために用意したとまで考えたくなる(そんなことは、もちろんありえない話だが)ような張り詰めた空気に満たされた。特に“絞首台”に対置された「輪光の聖母」はその“救済”にも通じる“緊張と弛緩”のテンポによって思考を誘発する。聴衆はピアノの響きに自分自身の想いを対置したのだ。ダイナミズムの中に不気味さを加味したような陣門の音色がその効果を一層高めたことは言うまでもない。

 後半は連弾、あるいは2台ピアノによる演奏で、響きをさらに深く広い世界へと誘導した。先ず、田中佳穂子と疋田尊子の連弾でドビュッシーの「6つの古代の墓碑銘」。コローの「パストラーレ」やプッサンの「アルカディアの牧人」、モローの「夜」、ターナーの「風景−タンバリンを持つ女」」、ロランの「カルタゴのディドに別れを告げるアイネイアス」などが曲の進行につれて次々と映し出される。音楽と絵画の実に興味深い対話が演出された。遥か古代の消え去りし歴史に想いを馳せる曲想が色彩感豊かで柔らかい音色にのって展開する。しかし、その想いは決して懐旧的な枯れたものではなく、むしろ艶めかしい。対置されるアルカイックな画面がそれを一層増幅する。でも、胸を高鳴らせるような不可思議な“刺激”がこの対比から生み出されたのはなぜだろう。考えようによっては説明的、あるいは解説的ともいえる絵画の選択だが、実際に映し出されてみると、それを超えた宇宙的な広がりを演出していたのが面白い。

坪本佐智子と湯川美佳(2台ピアノ)によるドビュッシー「白と黒で」にはルノワールの「ピアノを弾く婦人」、クリムトの「ピアノを弾くシューベルト」などが対置された。雰囲気の似た肖像画3枚が、どちらかといえば沈潜した音楽の雰囲気をうまく盛り上げたが、それは微妙に硬質な音質のピアノを的確に捕捉し、絵画のイメージによって展開させるものだった。抑制の効いた2人の演奏が印象に残る。

最後は大星直子と三宅宏実(2台ピアノ)によるラヴェル「ラ・ヴァルス」。元の管弦楽曲を髣髴とさせるシンフォニックな輝きがホールいっぱいに響いた。映し出されたのはルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」。激しい動きのピアノの曲想が、静止した1枚の画面と向き合う――この両者の息詰まる対峙が緊張をいや増す。もともと華やかな動きを静止画面の中に描き込んだ絵画だが、それがじっと静止したままで音楽と対峙する姿は糸を張り詰めた緊張状態に似ている。面白い拮抗関係を作り出した。ただ、2人の素晴らしいピアニズムを十分評価したうえで、あえて欲を言いたい点もある。ピアノの響きの中に、内省的な翳りをもっと投入してほしかった。陰陽両面のワルツへの想いがピアノによって描き出されたら、絵画との対比はさらに彫りの深いものになったと考えるからである。
 

ベートーヴェンを弾くということ
(2009/5/28、白石知雄)

つつましいプログラムだが、滋味あふれる演奏で、終わってみると豊かな気持ちになる。そんな茶道のワビサビを感じさせる演奏会もあるけれど、「木曜リサイタル〜作曲家シリーズ」この春の第4回、志賀雅子のリサイタルは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ「熱情」とヴァイオリン・ソナタ「クロイツェル」という2つの大曲を並べて、いわば、表通りに高くそびる立派な門構えの演奏会になった(新大阪ムラマツリサイタルホール)。

とはいえ、演奏は慌てず騒がず、もったいぶって間合いをたっぷり取るようなこともせず、テンポは安定して、確実な打鍵で進む。作品が立派なのであって、ピアニストはそれをそのまま差し出せばいい、そんな演奏と言えるだろうか。過剰な演出なしに「再生」されると、「熱情」という作品が、ダイナミックで英雄的なだけではなく、通常の短調・長調を歪める不思議な音程を数多く含んでいることがわかってくる。ベートーヴェンを既によくわかっているつもりになってはいけないのだと、改めて思う。

菊本恭子を迎えたヴァイオリン・ソナタも、第2楽章を含めて、後ろを振り返らず、先へ先へと進むタイプの演奏だった。確かにこの曲の譜面は、当時の室内楽曲としては例外的に協奏曲風で、ピアノが出ずっぱりで弾かねばならないかのようではあるけれど、ややヴァイオリンに負荷がかかり過ぎていたかもしれない。とはいえ、堂々と弾き切った二人は立派だったし、息もつかせぬライブ感あふれる演奏だったのは間違いない。ベートーヴェンの音楽は、怯むことなく挑戦すれば、一定の効果をもたらしてくれる。クラシック音楽には、懐の深い作品を繰り返し実演して伝承する、古典芸能の一面が確かにある。

白石知雄(「木曜リサイタル」構成・監修、音楽評論家)

 

ザレンプスキ発見
(2009/5/21、白石知雄)

ユリウシュ・ザレンプスキ(1854-1885)は、ポーランド音楽史で言えば、ショパンとシマノフスキの間をつなぐ存在。同国に生まれて、ウィーンとペテルブルクの音楽院を優秀な成績で卒業し、20歳頃から演奏活動に入る。リストに見出され、26歳でベルギー、ブリュッセル音楽院教授に就任するなど、生前の活躍は華やかで国際的だった。しかし、死後忘れられてしまう。本腰を入れて創作に取り組もうとした矢先に、結核を患い、わずか31歳で夭逝したからである。湊谷亜由美が、「木曜リサイタル」今春第3回として、1882年作曲の組曲「薔薇と刺」(おそらく日本初演)と、亡くなった年に書かれたピアノ五重奏曲(おそらく関西初演)を紹介してくれた。

サロン風の甘い響きはショパンに近いけれど、曲は半音階的に横滑りを繰り返して、それなのに、最後はちゃんと辻褄が合う。全体を見わたす構想力や、舞台映えする押し出しの良さがあって、リストが期待をかけただけある器の大きい音楽だった。しかも、これでもかと歌い上げたり、熱狂的に踊る感じはスラヴ風で、どことなくチャイコフスキーにも似ている。

なかでも、後半のピアノ五重奏曲(ヴァイオリン:稲庭達、林泉、ヴィオラ:植田延江、チェロ:林裕)は、聴きごたえのある大作だった。悲劇的な第一楽章から、第四楽章の大団円までスケールが大きく、弦楽器に魅力的なメロディーを用意しつつ、スリリングなアンサンブルの難所もあって、飽きさせない。この調子で長生きしていれば、ザレンプスキはきっと立派なオーケストラ曲を書いたに違いない。良い作曲家だ。

湊谷のピアノが怯えずに堂々とリードして欲しい箇所もあったが、共演者の集中力が素晴らしく、曲の魅力は確実に伝わったと思う。それぞれの作曲家に光を当てたい、というこの「作曲家シリーズ」の看板が生きるコンサートになった。

白石知雄(「木曜リサイタル」構成・監修、音楽評論家)

 

晩年のブラームスにクララ・シューマンを聴く
(2009/5/14、白石知雄)

「木曜リサイタル〜作曲家シリーズ」で、2年前にシューベルトの幻想曲ヘ短調で松村英臣と共演した兼光祐佳が、今度は一晩の主役になった。同シリーズ今春第2回のテーマはブラームス。曲目は、前半のソロが小品集作品118と119。後半は、ヴァイオリンの日比浩一、ホルンの池田重一を迎えてホルン三重奏曲。兼光は、真っ直ぐに伸びる音で、考え込み過ぎない素直なピアノを聴かせてくれた。

それにしても、彼女の年齢で、ブラームスの後期作品に共感できるものなのか?
冒頭の挨拶で、私は「晩年の曲と言っても、作曲時の実年齢はまだ60歳。本当に老いたと言えるのか、内心は複雑だったかもしれません」と解説させてもらったのだが、兼光の演奏はさらに踏み込んで若い。作品118の「前奏曲」は、重い扉を勢いよく開き、社交界へデビューするかのように華やかで、「間奏曲」のメロディーは、ショパン風にエレガントに身を翻す。演奏後のトーク・コーナーで、兼光は、クララ・シューマンに献呈されたこの曲集に、ブラームスとクララが会話をするような箇所があると言っていた。ブラームスから見たクララ・シューマンの肖像、しかも、二人が出会った頃のクララのイメージに引き寄せる演奏だったと言えるかもしれない。

後半の室内楽は、表情豊かなヴァイオリン、野趣を残したホルン、それぞれの個性が自然に生きるように書かれているわけだが、今回はそれぞれの主張以上に、細やかな気遣いが感じられるアンサンブルだった。兼光のピアノも、多少浮き足立つところはあるが、基本的には周りの音をよく聴いている印象で、収まりが良い。この経験をもとに、次は、本当の意味で独り立ちして、臆せず他流仕合ができるようになって欲しい。

白石知雄(「木曜リサイタル」構成・監修、音楽評論家)

 

ピアノ主体の室内楽という贅沢
(2009/5/7、白石知雄)

2009年5月7日(木)19:30
「木曜リサイタル」作曲家シリーズ@シューベルト加藤あや子ピアノリサイタル

漆黒のグランドピアノが鎮座するサロンに、多彩なゲストを招く社交のひとと。 -- ピアノ主体の室内楽には、そんな華やいだ雰囲気がある。いかにも19世紀のヨー ロッパらしい、上品で、さりげなく贅沢なジャンルだ。

ピアノ独奏と室内楽を組み合わせて、午後七時半からはじまる大阪ナイトカルチャー事業、ムラマツリサイタルホール新大阪の「木曜リサイタル〜作曲家シリーズ」は3年目に入った。春の全6回シリーズの初日(5月7日)は加藤あや子によるシューベルト。曲目は、晩年の大作、ソナタ変ロ長調D960と、大阪フィルのチェロ奏者、庄司拓を迎えたアルペッジョーネ・ソナタ。会場には、初めてのお客さんに混じって、過去の出演者の顔も見える。ステージと客席が近いサロン風のコンサートである。

このホールが備えるライプチヒ、ブリュートナー社のピアノは、中低音の木目調の響きと、高音域の共鳴弦の輝きが相まって、独特の味わいをもつ。この楽器をどう弾くか、というのが毎回の聞き所のひとつ。加藤さんの変ロ長調ソナタは、霧の中でさまようように始まって、最後の楽章で、遂に輪郭のくっきりした出口が見える。強弱の変化を抑えて、和声や音色の移ろいが表に出るスタイルだが、靄の向こうから聞こえるフレージングは、古典派風の句読点を保っていた。慣れない楽器での試行錯誤はあっただろうけれど、古典的な語法と夢見がちの気分が二重写しになり、面白い効果を上げていた。

チェロの庄司拓は譜面台を置かず、暗譜での演奏だった。オーケストラ演奏とは違う「独り立ち」の意気込みが伝わってくる。さすらいの悲歌を思わせる冒頭からリズミカルな楽想への移行も、自然で無理がない。お行儀のよい進行の中で、主張すべきはきちんと言う存在感のある演奏だった。

留学時代に、廃墟めいたドレスデンの教会でアルペッジョーネ・ソナタを聴いた思い出、相愛大学時代の後輩だという庄司さんとの縁など、トーク・コーナーでは、興味深いお話と、加藤さんの飾らない人柄で客席が沸いた。暖かい雰囲気が育ちつつあると、秘かに自負するこのシリーズ。是非、会場へ足を運び、多くの方に体感していただきたいと思っています。

白石知雄(「木曜リサイタル」構成・監修、音楽評論家)

 

「アンサンブルは愉しい」 嶋田邦雄(2009.4/25)

室内楽のアンサンブルは確かに愉しい。今日聴いた『春薫―アンサンブルの愉しみVol.2』(4月25日ザ・フェニックスホール)は前半にモーツァルトの「ピアノ四重奏曲第1番ト短調K478」(久保敦子/Pf、釋伸司/Vn、三木香奈/Va、上塚憲一/Vc)ブラームスの「クラリネット三重奏曲イ短調」(新暁子/Cl、山本賀世子/Pf、左納実子/Vc)、後半にコダーイの「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲」(八幡順/Vn、大町剛/Vc)を配したプログラムだった。モーツァルト以外は演奏頻度がそれほど多い曲ではない。それにもかかわらず、全体に実に新鮮で、楽しい。演奏者と聴衆が組み合ってカドリールでも踊り合うような息を合わせた不思議な雰囲気が作り出された。

室内楽の場合、常時、演奏のために同じメンバーがグループを組むケースは少ない(弦楽四重奏団やピアノ・トリオなどの場合はその限りではないが)。その曲を演奏する時には真剣で厳しく長いプローベが繰り返されるにしても、オーケストラの場合とは違う“未知のぶつかり合い”がある。それぞれの音楽的主張を対峙させながら、作曲者の想いを演奏者の想いの統合した交差点の上に描き上げるぶつかり合いの作業である。そこには新鮮な息使いが生まれざるを得ない。馴れ合いを許す余地はないのだ。

モーツァルト「ピアノ四重奏曲第1番」で、久保、釋、三木、上塚のコンビはト短調への想いを強調した。各奏者が競い合うような技量の対峙は極力避け、沈潜した想いを常に見詰め続ける。そのため、憧れに満ちた第2楽章にも、希望を輝かせる第3楽章にも常に深い翳りがつきまとった。特に第3楽章の演奏法は私がこれまで聞いたものとはかなり違う、深淵を覗かせるような内容だった。華やかさをすべて消去した実に新鮮な演奏だった。

ブラームス「クラリネット三重奏曲」では時に、チェロが主導的な役を担い、曲想に変化を与えていたのが印象に残る。クラリネットがヴァイオリンだったら普通のピアノ・トリオになるのだが、クラリネットを投入することで独特の艶とその反面の翳りを引き出す。ブラームスの想いもそれによって内面の深淵をより深い色調で引き出そうとしたのではなかったか、と思う。チェロのアクセントはそれをさらに効果的に反射させた。音楽の言葉、思想を聴衆に問いかける意味も出てくる。何のケレンもない演奏なのに引き込まれたのはそのせいだろうか。

コダーイの「二重奏曲」は凄い。ヴァイオリンとチェロがこれほど激しく対峙し、和合しながら作り出した世界は実に多層的であり、天上と深淵を同時に提示しているようだ。いわゆるヨーロッパ音楽の語法を異化した独自の音楽世界だが、その響きが私には非常に親近感をもたらすものだった。まさに中部ヨーロッパの中で独自の社会、文化を構成してきたハンガリー民衆の想い(それは苦悩であり、また希望でもある)が息吹となって音世界に収斂され、聴衆に語りかけてきたのだ。それは私たちに「あなたの音楽的アイデンティティは何」と問いかけているようでもあり、深く考え込んだ。いや、思索への楽しい誘いであった。

室内楽が愉しいのは、ある意味で、演奏者と聴衆が一緒に音楽の“時間と空間”を作る楽しみでもある。そこではあまり知られていない曲の魅惑的な内容が双方の模索の中から姿を現してくる。プレ・トークで黒川浩明さんが語った山登りの楽しみにも通じるものだろう。深い霧の中から稜線がくっきりと浮き上がってくる喜び――それは確かに私たちの音楽への、あるいは現在の世界へのアプローチにも通じる。その喜びは(音楽が、世界へのアプローチが)“商品”として売りつけられるのでなく、ともにその創造、解明に参加する喜びだろう。そんな思いを巡らせた演奏会であった。